海外で美術を学んだ私が思う、日本のアートシーンについて

海外で美術を学んだ私が思う、日本のアートシーンについて

日本は特に、世界中でも近年、何でもかんでも「アート」と括っちゃう傾向にあるように思います。ミュージシャンのこともアーティスト、クリエイターもアーティスト、絵を描けば全部アートで、グラッフィックでもイラストでもアート。どこからどこまでが、アートで、アートじゃないのか、ということを、考えたことがないからこういうことが起こってしまうのかなと思います。

そこで今回ちょっとこのことについて考えてみます。

 

はじめに

私はこのブログで「アート」というワードを連発していますが、まえがき の記事でも書いたように、私は自分のことをアーティストだと本心ではあまり思っていません。つまりは自分の作品が「アートかどうか」を判断しきれません。それは自分ではない誰かが、私のことを形容するときの判断にまかせます。

「利便上」もうこの説明毎回するのが面倒なのでそういうことにしていますが、私は出来ることならば、生涯をかけてアートがなんなのかってことを研究していきたいと思っています。 でも今からここで話してしまう内容は、ざっくりとしたことをまとめているだけで、本心じゃない部分も入っているということをご理解頂ければなと思います。

アートがなんなんだろうっていう答えを、漠然と掴んでいるからこそ、もっと深くまで考えることが出来るし、自分の存在と作品がアートではないと、かろうじて判断できているんだと思っています。 そんなことを考えたことがない人が、なんとなくでアートについて綴っているのは見ていて辛いと思うので先にこれだけは理解してもらえるとありがたいなと思います。

自分の作品の内容は一旦置いておいて話をします。

このブログでも何度も話していますが、海外のアートフェアに出入りしていると、多くの日本人の作品は、一目見ればわかるようになって来ます。それは圧倒的な作品の表面的な部分でのクオリティと、その逆で、コンセプトなどの内容の薄さが見て取れるからです。

一体なぜ典型的な日本人の作品は、そう見えるのか。これには多くの要素が絡んでくると思います。

 

1. 美術教育

一番キーポイントになってくるのは、日本の美術教育が例えばヨーロッパ諸国に比べ発達していないということです。海外の美術館に行くとかなりの確率で、小中高生の社会見学のツアーに遭遇します。美術館の人のツアー付きで解説して回っていたり、スケッチして回ったり。こちらの友人と話していると、美術の授業でも美術史のことを日本に比べると、しっかりと勉強しているのがわかります。 簡単に言えば、美術そのものが日本に比べとても身近だという事です。

美大に行くような人ともなれば、じゃあ美術に詳しいのかと思いきや、日本の美大の多くが「美術史」に特別力を入れていません。これを言うと「いや◯◯美大はそんなことない!」なんて声が必ず飛んでくるんですが、有名美大卒の人の知り合いもたくさんいるし、その人達からも話を聞いているので安心してください、海外の美大生に比べて日本の美大生は美術史にとても疎いです。言い切れます。どの美大にだって美術史の授業はありますが、学生が不真面目なのは、きっと今これを読んでくれている多くの人が頷いてくれるはずです。ツナギを着ながらでも徹夜明けで授業に参加して、寝る授業にしてたか、名前だけ返事して教室を出たことありませんか?美術史のレポート提出だけ必死になった記憶はありませんか?私ももちろんそんな感じでした。

話が少し逸れますが、ドイツで私がいた美大では、1学期に1コマ美術史が必修でした。それを4年分。美術史の授業をする教授は四人ほどいて、それぞれの教授が今期やる美術史の概要を出し、学生がどの教授の授業を受けるか選べます。 美術史の全体の歴史をざらっと勉強するような授業は少なく、基本的には教授の研究に特化しているような授業です。つまり1学期、約4ヶ月間、かなり狭い範囲のことをやることになります。基本的な美術史は、美大に入る前の段階で終わっているからです。

例えば私が受けていた授業の1つで、「内側と外側」という点で絞った1学期がありました。15回程の授業は毎週テーマが分かれていて、(授業計画が組まれて最初に渡されます。)今週は本の作品について、来週は印象派の内と外、再来週は表現主義でその次はコンテンポラリーのこの作家の作品について。その次はこの作家。などなど。毎週授業に使う参考文献は毎週教授が、図書館に集めて置いてあるので、毎週図書館にその本のコピーを取りに行って、概要を自分で作って次の授業でプレゼンしたり、予習を常にする必要があります。そうしないと次の授業全くついていけない。 例えば別の教授は4ヶ月間デュシャンについてのみ。考え方や技法など彼にまつわる事などそれはもう深く深く話を詰めていきます。

なぜそういう形態だったかというと、ドイツにはKunsthistoriker(美術史学者)という人たちが多くいます。一般大学にも史学のひとつとしての学部も多いです。教授が学者としても常に研究と論文発表をしているような人なので、彼らの独自の研究内容が講義になっていることも多く、そういうわけでとてもとても深く詳しい講義になったりします。

こうして見えてくることは、美術史を勉強するということは、美術史の全体の流れを完璧に暗記するということではなく、

「美術史を深く研究する事で得られる、美術とは何なのか、美術を研究するということはどういうことなのか」

という部分を学んでいるように思います。

 

「美術」は学問であり、「研究」されるべきものである。もちろんその表現結果に至るまで全ての工程を。
そして作品は研究結果であり、作品は見るものではなく、作品が何を語っているのかを聞くものであるべきだ。

というのがここ最近、私が思う、美術、アートの在り方かなと思っています。

2. 日本文化

ではなんで日本ではあまりこういった美術の研究という概念が薄いのか。これには多くの文献でも挙げられたことですが、1つは「工芸文化」が影響していると思われます。皆さんもご存知の通り、日本には「伝統工芸」というものが、欧州諸国に比べて非常に多いと思います。現代においてもジャパニーズクオリティというくらい、日本のプロダクト製品の質が高いことは、世界に通用するレベルです。 工芸自体に詳しくはないので、こう言うと語弊があるとは思いますが、このテーマに沿って言うのであれば、工芸はコンセプトや内容を抱えているものが少なく、表面的な技法やクオリティなどが大切なはずです。今で言うクリエイターに近い位置付けで考えてもいいと思います。工芸で大事なことは、質の高いものを常に同じように作り続けるという考え方なはずです。

日本人の美術作品の多くは、こういう意味で、工芸に近い部分があると言えます。

また別の話をすると、日本人の作品の内容の部分は、相手に共感を求めるようなスタイルが多いのかなと思います。自分が綺麗だと思ったものだったり、自分の感情を表現しているものだったり。自分の中のファンタジーだったり、自分そのもの(自画像)だったり。

この理由のひとつとして、俳句や短歌の影響だと考えられます。昔の日本の個人の感情の表現方法は、俳句や短歌、小説など、時代によって変わってきますが文章で伝えるものが多く、また、「情緒」と言うものがキーワードになってきています。俳句や短歌などは自分の感情を、間接的に伝え、その「素晴らしさ」を相手に感覚的に伝えることで、共感を求めるスタイルです。結果そういう感覚が得意な日本人の作品は、「自分の感覚」と「相手の感覚」にフォーカスを当てているものが多いように感じます。

また別のことですが、日本人は内的自己顕示欲が強いように思います。それはなぜかと言えば自分の感情を相手に直接伝えないことを美徳としたり、周りと同じように、突出しない様にする社会文化だからです。そうすることで、他人と違う自分をアピールしたい感覚が増殖します。そういうことで、美術作品で自己顕示をする人がいたり、または共感を相手に求めるのは納得できます。

特に現代美術というのは、過去に作られた作品の模倣はタブーとされているわけですので、常に新しいものを求められています。それが1つの美術的価値なわけです。 そういう性質が美術にあるのですが、そこで「共感してほしい」が作品の裏側に大々的に潜んでいたら、新しいものは生まれにくいはずです。または「自分の感覚が、過去、未来で、人類で、唯一無二なもの」でなければなりません。極論ですが。

それってとても難しい。 なので他と差をつけるために、新しい技法やさらなる表面的なクオリティを求めて行くようになる構図が生まれるのかなと思います。

 

または見たこともないものを相手に提示することで生まれる、「驚き」を追い求めるスタイルも多く目につきます。
そういった表現で例えを挙げるのであれば、吉岡徳仁さんが挙げられるかなと思います。

彼の作品はアートとしてもデザインとしても世界中で評価されていて、多くの美術館でも所蔵されています。トップデザイナーとしてのクオリティの高さとこだわりが見え、新しいアイデアとその表現力が評価されています。

そして、およそ200万本の透明なストローにより、マイアミでたびたび発生する大規模なトルネードやハリケーンといった自然現象を表現した空間インスタレーション「Tornado」を発表しました。雲や雪、霧のその粒子が何千、何万と重なり合う事によって白くなり奥行きが生まれる様に、単体では透明なストローを使って、同じような自然現象を創り出しました。

The fashion post – Tokujin Yoshioka 吉岡徳仁インタビューの記事より(https://fashionpost.jp/portraits/123145
作品の写真はリンクからご覧ください。

上に書いた話を具現化したような作品かなと思います。素材やテクニックで新しいものに変化をさせ、自然のものを表現する(俳句あたりの話)という感じです。私は特別吉岡徳仁さんについて詳しいわけではありませんので、彼自身が自分の作品を「アートかデザインか」ということにこだわって言及しているかどうかはわかりませんが、中身よりも外見押しの作品のトップレベルかなと個人的には解釈しています。

3. 建築の影響

日本の作品の傾向が、工芸文化から、または俳句文化などからも来ているのではないか、ということは上で説明しました。もうひとつ別の角度からの話で、「日本でアーティストとして活動しにくい」のはこういった日本文化の影響意外にも、ひとつ、意外にも日本建築からも影響があるのかなと思います。

昔の日本の絵画表現で思いつくのは、みなさん茶室の水墨画の掛け軸が浮かぶかなと思います。掛け軸の標準的な幅は「尺五」といって、54.5 x 190cm。その幅広幅狭サイズとして尺八と尺三幅があって、64,5x190cmと44,5x175cmが基本的な掛け軸の幅になっています。またもうひとつ小さいものが「尺幅」で35x140cmです。(そう習ったような気がします) 例えばこの掛物と花入などを飾る、和室(茶室)の一段上がったところを床の間といいますが、大体の幅が決まっています。そういった意味で空間の取り方に合うように掛け軸の幅も決まっています。

これはだいぶ限定された例ではありますが、言いたかったことは日本における絵画作品は、巻物である形態、そして幅による表現の制限があったということです。

現代に目を移しても、日本家屋やモダンな一軒家だとしても、大きな絵画を飾るスペースなんて用意されていません。窓を大きく取り、狭い日本の家には欠かせない、壁に埋め込み型収納スペース(クローゼット、物置)の確保によって、一般的なサイズの日本の家には、絵画を飾れるような場所はありません。もしスペースがあったとしても、そこに置かなければならないものはまだまだあります(ソファ、本棚、ベッド、テレビ台etc.)

そういった意味でも、日本で作家活動をしている作家の作品を見ると、やはり小さいものがほとんどです。もっと言えば自由なダイナミックな作品、立体物というものはもっと数が減ってしまいます。作る場所も保管する場所もなければ、売れ行く先が限定されてしまうからですね。

 

2週間くらいに渡ってこの記事を書いていたんですが、おかげでまた支離滅裂になってしまいました…
これからこういう記事を書いていう中で、ドイツで得た内容だけでなく、オランダで得た内容も絡めていけるようになればなと思います。

Masaki Hagino
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