芸術の「敷居を下げる」ことと、その功罪についてもう一度ちゃんと考えてみる

芸術の「敷居を下げる」ことと、その功罪についてもう一度ちゃんと考えてみる

芸術ってなんだろう?と考えるとき、「よくわからない」「難しそう」「なんとなく高尚なもの」という印象がまず先に立つ人も多いと思います。特にバレエやクラシック音楽、美術といった分野に対しては、その傾向がとても強い気がします。

でも最近では、それらの芸術ジャンルが、もっと「わかりやすい形」「身近な形」に変換されて、多くの人に届くようになってきました。これは素晴らしい動きとも言える反面、どこかで「本質が薄まっている」という危惧を抱く瞬間もあります。

今回は、芸術を「敷居を下げて広める」ことと、「本質を守る」ことのバランスについて、改めて考えてみたいと思います。

芸術とハイカルチャーの関係性


まず、そもそも芸術ってなんなのか。以前書いた記事でも触れましたが、舞台芸術(バレエやオペラなど)も美術(絵画、彫刻、写真など)も、「芸術(art)」という大きなカテゴリの中に含まれるものです。

この「芸術」という言葉は、長い間「ハイカルチャー」として扱われてきました。要するに、「理解するにはそれなりの知識と経験が必要なもの」であり、「それを持っている人だけが楽しめる」というある種の排他性を伴った文化だったわけです。

ヨーロッパで産業革命が起き、庶民の間にも教育と経済的な余裕が生まれてから、美術館や劇場といった公的空間が整備され、芸術は少しずつ「一部の特権階級のもの」から「公共のもの」へと変化していきました。

とはいえ、その変化は一筋縄ではいかず、「広まることで質が下がる」「わかりやすくすることで、本質が失われる」という議論は、何度も何度も繰り返されてきました。

現代音楽と「わからなさ」の価値


例えば「現代音楽」の世界にはこんな言葉があります。「わからなくて当然」「わからなさを楽しむ」という価値観。

現代音楽は、調性やリズム、形式といった“耳なじみのある要素”を意図的に崩し、聴く人に強い問いかけをしてくるものが多い。そのため、ほとんどの人にとっては「不協和音の連続」でしかないかもしれません。

だけど、音楽というものが「快・不快」だけで判断されないものであることを提示し続けてきたことで、「音を聴く」という行為そのものの意味を広げてきた分野でもあります。

ただし、そこにもリスクはある。難解すぎて、閉じた世界になると、人が離れていく。結果的に、支援も減って、文化として維持できなくなる。なので近年では、「現代音楽をポップに届ける」試みも増えていて、音楽フェスに混じって上演されたり、映像や身体表現と融合した形での発信も多くなってきました。

ここでも「敷居を下げる」ことと「本質を伝える」ことのバランスが問われています。

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和食の例:ユネスコ登録後の変化


もう一つ、芸術とは少しズレるかもしれませんが、文化として非常に示唆的なのが「和食のユネスコ無形文化遺産登録」後の変化です。

登録された直後、「和食」が世界的に注目されるようになり、日本国内でも一種のブームが起きました。しかし、そこで起きたのは「和食=寿司・天ぷら・ラーメン」的な誤認の広まりでした。

本来、和食の定義には、だし文化、季節感、器との関係、調理法の美意識など、非常に繊細で複雑な要素が含まれています。でも、広まり方がカジュアルになると、それが全部省略されてしまう。

つまり「本物に触れる機会を増やすこと」と「本物のかけらだけを拡大して伝えること」は似ているようで全然違う、ということ。

これは、芸術にもまったく同じことが言えるかもしれません。

広がることの功罪と、美術の現状


さて、話は戻って「美術」について。これは、ある意味すでに「敷居を下げすぎてしまった」例の一つかもしれません。

紙と鉛筆さえあれば始められるという圧倒的な手軽さもあり、「アート」はすっかり日常のものになりました。それはとてもいいことでもあります。ですが、同時に「アートとは何か」「美術とは何か」という本質的な問いかけが、あまりにも曖昧になってしまいました。

「描いたもの=アート」として扱われることで、「見る力」「考える力」「判断する力」が育たず、ただ“雰囲気”で語られる文化になってしまった側面があります。

結果、「これはすごいartですね!」という言葉が、作品の背景も技術も構造も知らないままに飛び交うようになってしまった。これが、「文化として広まること」と「文化が軽くなること」の分岐点なのだと感じています。

では、「広めるべき」なのか?


「敷居を下げる」「裾を広げる」ということが、果たして“善”なのか“悪”なのか。これはとても難しい問題です。

人口が増えれば、支援する人も増える。裾野が広がれば、その中から優れたプレイヤーが生まれる可能性も上がる。だから、広がること自体には確かに意味がある。文化というのは、まず「存在を知ってもらう」ことが出発点だからです。

でも、知ってもらうだけで終わってしまって、「本物を知ろうとしない」「リテラシーが育たない」状態が続くと、それは文化ではなく、ただのコンテンツになってしまいます。
特に現代美術が難解な側面があるため、対照的に「分かりやすい」作品の方が良いと思う人も多いでしょう。SNSのフォロワー数が価値基準になるこの時代性も相まって、シンプルな綺麗な作品が、専門知識を持たない多くの人の目に留まり人気になることは至極当然な流れだと思います。

そしてこの「数」は力になり得るということ。例えば本当は間違っていることでも、大多数がそれを正解だと言えば、それが正解になるでしょう。これはここでも言えることで、専門家から、もしくは批評家や美術史家の評価は本当はいい作品ではないかも知れない作品でも、多くの人が作品を買えばそれはもちろんいい作品になるだろうし、それがマーケットを動かす力が出てきます。売れる作品ということになれば、資産価値が出てきて値段がさらに跳ね上がり、もしかしたら大きなギャラリーが扱い始めるかも知れません。そうすればもうマーケットが、業界が認めざるを得なくなり、「正解が曖昧」な美術の性質的にも、この辺りの「塗り替え」が存在しているケースも少なくはないと思います

理想は、「本物の横に、わかりやすいものを」


ここで理想的だなと思うのが、例えば歌舞伎の事例です。敷居を下げた歌舞伎(現代語訳、親しみやすい演目)と、本来の伝統的な歌舞伎を、並列して提示する。どちらか一方ではなく、両方を揃えて見せる。

そして、その両方に“ちゃんと意味がある”と伝える。その橋渡しを担う存在がいてこそ、文化は深まり、広がっていく。

海老蔵さんとかも、昔からある題材の歌舞伎とか、古語的な日本語で展開されていく要素を少し軟化させて、浦島太郎とかみんなが知っている童話を題材にしたり、あまり難しい日本語を使いすぎないようなものだったりを使って、少し敷居を下げたような歌舞伎を展開されているパイオニアなんだと思います。そしてご本人もメディアに出たりブログが有名だったりと露出度を上げて、歌舞伎業界に大きな貢献をしているように思います。


確かに多くの人が興味を持って、それに携わる人口が増えることは大きな可能性を含んでいると思います。プレイヤーが増えれば、支援する人も増える。そうしてそのコミュニティが大きくなれば、大きなお金が生まれて、国も潤うことができる。そうすれば国からの支援金も増えて、プレイヤーにお金が返ってくる。そういういい循環が生まれれば、文化がどんどんと強く、広く、大きくなってくると思います。

文化が広まれば、プレイヤーが増えれば、その質も上がってくるはずです。なので結果的に優れたプレイヤーが生まれることに繋がることになるのは間違い無いと思います。

まとめ:どちらか一方に偏らないために


芸術は、多くの人に届けることで守られる一方で、多くの人に届けることで壊れることもある。これは、皮肉でもあり、真理でもあると思います。

でも、だからといって「広めるべきでない」とは言い切れないし、「誰でも自由にやればいい」とも言い切れない。その間にある、グラデーションをどうやって丁寧に取り扱っていくか。

これからの私たちの社会に求められているのは、まさにその「グラデーションを翻訳する人たち」の存在なのではないかと思います。

自分の活動も、少しでもその端っこに引っかかっていればいいなと、そんなことを考えながらこの記事を書いています。