売れる作品か売れない作品か

売れる作品か売れない作品か

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今回はメンバーシップ記事からの転載です。
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この前TwitterXでも話をしてたことをもうちょっと考えてみようと思います。

https://x.com/masakihaginoart/status/1761663225110913183

「良い作品かどうか」という話と
「売れる作品かどうか」という話は少し別。

何が良い作品かということは少し別の議論なので、今回はしないで進めるので、皆さんが思っている「良い作品」とか、優れていると評価されているとかぼんやりした概念の話だと思ってください。

資本主義上だから、良い作品は売れるだろうし、売れる作品はつまり高くなる。なので「良い作品は高い」というのはあながち間違ってない。

でもこの逆の、「高い作品だから良い作品」というのは必ずしも当てはまらない。極端に言えばどんなに良くない作品でもお金持ちの知り合いに高額で作品を買って貰えば「高額な作品」は出来上がることになるからだ。

このような話はよく聞く話なんだけれど、大切なことが抜けている。「一体何人の人が見た」結果値段が上がっているのか、売れてないのかというような、認知の話が抜けている。

売れていない作品は安い、とか
安いから売れない、高いから売れない、良い作品じゃないから売れない、悪い作品だけど売れる。
こういう話は美術業界で常に話のタネなんだけれど、それよりも何人が見たのかという認知の話がごっそり抜けていることが多い。

売れるか売れないかという局地的な話は非常に俗世的で、短絡的な話でもある。例えばどこにも展示してなくて、家に並べておいて、お金持ちの知り合いを10人呼んで、1点ずつ100万円で買ってもらえば、その作家は「完売画家」で1000万円を売り上げたことになる。というこういう話ができてしまうのが「売れるか売れないか」という短絡的な話。

「どこで」「何人に見てもらったのか」ということは作家にとって、キャリアにとって非常に大きな内容なはなず。
例えばこの前ちらっと見た大阪のParcoギャラリーっていうケースがあって、大きなパルコと大丸百貨店が繋がっているところが心斎橋の方にあるのだけれど、そのパルコギャラリーというのは、普段建物の柱にある広告のようなところに作品を飾っている場所がある。
たぶんこの作品の前を一日数千人という人が通って、目を向けているかもしれない。でもたぶん多くの人は作品をちゃんと見ているわけではない。
でも1か月も展示してみれば、「数十万人が見た作品」とも言えるはずだ。

まぁこれは極端な例だと思うけれど、つまりはこの売れたのか売れなかったのかという話は、「どこで」「どのような人が」「何人見た」その結果、「売れたのか、売れなかったのか」という話をしなければならない。

日本の業界のゆがみ

長年ドイツで活動してきた側から見ると、やはり日本のアートマーケットは少し歪んでいる部分があるように見える。これは端的に言えば、「業界が狭いせい」と、「アートリテラシーが低いせい」であると思う。
つまり多くの人はコンセプチュアルアートやコンテンポラリーアートを理解するほどの、目や知識を持ち合わせていないことが多く、結果的には絵画としてのクオリティや、色鮮やかな作品など「分かりやすい」部分を評価しがちな気がする。これは別に欧米に絶対起こらないのか?と言われると、いやそんなことは全然ないんだけれど、ただやはり欧米の人たちの方が、美術に触れている回数が非常に多いのは確かで、それは教養とか文化の違いで、例えばドイツ人は歴史としてドイツ表現主義の人たちの作品に詳しかったり、作品がたくさん残っているわけだから、美術館に行く回数も多ければ、欧州を旅行する機会が非常に多いので、旅行先の美術館に行くなんてことも多い。なので総じて結局美術作品に触れている時間が、日本人よりもはるかに多いということは、少なからずリテラシーの向上にもつながっているように思う。
確かにコンテンポラリーアートに詳しいか?といわれるとそれはどっこいどっこいな感じがするけれど、それでも土台があると無いとでは理解力に差が出ているように思う。

日本は今でもそうといえるけれど、特に絵画作品は「絵画」として優れているのかどうかという部分に重きをおいて教育している美大もあるんだろうなと、わかるようにコンセプチュアルアートから距離を置いている作家が非常に多い気がする。それが悪いということでは全くないけれど、一番気になるのはコンテンポラリーと、それらの区別ができていないケースが多いことにある。これは作る側も理解できていないことがあるというのもまた多きな問題な気がする。展示する側も、見る側も「これもそれも同じアート作品」として見ていることが多く、結果的に意味不明な難解な作品よりも、分かりやすい絵画を評価しているように思う。もしくは「感性」とか「センス」という形で評価を受けることもあれば、「デザイン性」の部分だったり、「緻密な作業」などといったこともあり得る。

日本人特有の「流行りもの好き」

日本人は個性がないというのは、欧米からの視点でよく言われることではあると思う。自分の意見を言うよりも同調性を優先する社会的常識のせいやそのための教育にも問題があるとは思うけれど、そういう文化形態というか奥ゆかしさみたいなものを美徳する。
複雑な話は置いといたとしても、例えばファッションを見ればよくわかる。日本人は世界的に見てもとてもファッションが大好きで、オシャレや美容に気を使っている。そしてそのすべてが流行に影響を受けている。
日本に来たアメリカの知り合いが昔「日本人は(特に女性)はみんな同じ髪型でメイクで、服装までも似てるね」と言っていたのを思い出す。
確かにアメリカに行ってみるとそれはもう人種も違えば所得も大きく違うわけで、いろんな人がいて個性が爆発している。

話が逸れたけれど、つまり日本人は潜在的に「みんながいいと思っているものを欲しがる」という傾向が強い気がする。これは日本人とかじゃなくて、人間そもそもそういう傾向にあるのかもしれないけれど、日本人は特に強い印象がして。結果的にその判断に影響を与えている気がする。あの人気のタピオカを一度飲みにいかなきゃ!とかね。別にそれを本当に欲して、本当に評価してということではなくて、一過性だったり話題性に時間とお金を使えるゆとりがあるということ。

人気の作家には、多くの人が注目するし、見に行くし、買う人も増える。
それが本当に「いい美術作品かどうか」ということを判断する力がない人も多い。でもみんなが評価しているので、良い作品に違いないというバイアスがかかっている。ブランド品なんかと同じかも知れない。

どうやって活動するのか

悪い方向で話を進めてきてはいるけれど、結局のところ、「作品の良さ」が売れる売れないに直結しない可能性を十分に考慮に入れる必要があると思う。上で上げたような、業界の性質、日本人特有の性質というのを考慮して動く必要も出てくるかもしれない。
いや、別にそんなしょうもないことに意識や時間を使う必要がないとは思う。ただそれには歯がゆい思いをし続けることに耐えなければならないし、お金をどうやって生んで生活していくのか?という問題を別でクリアする必要が出てくる。

結局のところ、認知を増やすことというのは非常に大切だと思う。それは作品ではなく、作家自身の評価が割と大きいからだと思う。
アイドルに成れとは言わないけれど、少なからず、人は人に付くという側面を無視できない気がする。
というのも、やっぱり「作品さえよければ」と思う人も多いだろうと思うからだ。

でも実際そんなシンプルな話でもない。作品がよくなくても売れまくっている人気作家は事実いるし、作品がいいんだけど人気がない人もいる。
でも大切なことはいつだって、良い作品を作っていることではあるけれど、
コンペに応募する努力を怠らないとか、いろんな別の努力の結果、「認知」をどうとっていくのかということは考えることができると思う。
その努力はギャラリーやアシスタントなど自分以外の人間でもいいとも思う。
兎にも角にも、良い作品を作り続けること、そして認知を取ることというのは、必要不可欠なことなんだと思う。