【制作裏話②】空間と次元について考える
空間について考える
主観ということと、絵画を分解するということをずっと考えてきていたわけだけれど、その中で空間認知という部分で作品を作りたいなと思っていました。
空間認知(spatial cognition) とはドイツ語ではRäumliche Orientierungというのだけれど、脳科学に触れたときにこの部分にとても興味がありました。
文字通り、空間をどうのように認識するのかという機能なんだけれど、これは記憶とも重要な関係性があります。
例えば3日前の夜ご飯、何を食べたか思い出してください。
と聞かれて、うーん…と思い出そうとすると、
人はその料理単体を思い出すよりも先に、「どこで食べたか」という空間を先に思い出したりもします。誰と食べたかとか。
認知や主観ついてはこのように記憶や知識などといった「過去の経験」の上に成り立っていることが多く、これは絵画を鑑賞する際にも重要なことかなと考えます。
例えばクレーなんかが分かりやすいですが、抽象の風景画というものは、砕けて言うと「めちゃめちゃ下手だしちゃんと描けてない」のだけれど、それでも見る人は家とか人の顔とかって判断できるよね?ということをやっていたりします。なぜこれが可能なのかというと、人は似たようなものを見た経験があるから、あーはいはいあれね!と補完してみることが可能です。逆にこれが見たことないもので、詳細が描かれていなければもちろんわかるわけがありません。
抽象画の例は極論的な例なので分かりやすいですが、これは別に写実的な絵画だとしても同じことです。なぜなら絵画というのはそもそも二次元のもので、その中に立体的な空間(屋内や屋外、人物画どれだって)を感じられるということは、一種のイリュージョンなわけです。錯視です。
主観的な空間認識
二次元の絵画から、三次元を想像、創造して認識できるということは、絵画や写真などを見慣れている現代人には容易なことです。これも経験や記憶、知識ですね。
これももちろん、主観的だと言えます。つまり人それぞれ変わってくる話です。写実的な絵画ではなく、抽象的な絵画にもどって想像してもらえば分かりやすいと思いますが、詳細に描かれていない物体を脳内で補完して認識する際、その補完というのは、人それぞれが蓄積している材料を持ってしか補完できません。そりゃそうで、なんか抽象画を見て、あーこれは行ったことない「冥王星のあの場所だわ」ということを認識はできません。
あ、これは家がかかれているな(家という概念がある、見たことがある)
これは女性だな(人間の女性を知っている)
ということが行われています。でもこれは、「家」といっても洋風建築なのか、和風建築なのかなどは人によって変わってくるし、女性もどんな女性なのかということは人それぞれ違います。
回りくどい説明をしましたが、つまり
二次元の絵画から三次元空間を脳内で認識・把握すること → 錯視にイリュージョンを介して、経験、知識、記憶で補完する → 主観的な空間を認識する
ということが言えると思います。
こういうことを考えていたときに、なにかこれをシンプルにして作品を作りたいなということを考えました。
2D→3Dを単純化する
鑑賞者に考えされることができる作品は、インスタレーションにおいて、コンセプチュアルアートにおいて重要なファクターかなと思っています。
なのでより「なんだこの作品?」という、ファーストインプレッションを大切にしようと思いました。なのでいろんな情報をそぎ落としてそぎ落として、シンプルであることが重要かなと思いました。
「2D→3Dの内の変換」という部分だけをシンプルに表現するためにはどうすればいいかなーということをずっと考えていて、
まずはシンプルな空間というのは立方体の中かなと思いました。
そしてシンプルな立方体を想像させるためには、展開図がいいかということをまず考えました。
ただ展開図を見せるだけでも成立するのだけれど、例えばそれは手書きで展開図を作図したものと、立方体を展開したものを展示するのとはどう違うのかということを考えました。
この違いについて考える時間がすごい長くって…
いろんな展開図を引いてみて、ネットで探してみるとすごい複雑な多面体の展開図をDLできるサイトもあって。これはこれでクイズというかIQテストのようで面白いなとも思って最初はこれで行こうと思っていたんですが、これは最初の補完という部分の要素が弱いなぁと思うようになりました。
自分で引いた正立方体の図面をで箱を作って、それをつぶして、写真に撮ってみたりもしました。
これは
「もともと立体だったもの」を見せて
「元の状態の立方体」を想像させているのだけれど、
今度はシンプルからちょっと遠すぎるような気がしました。潰されているということが加算されることで、意味が増えてしまって、シンプルから離れているからかなと。
その後、絵を描く、写真を撮るってことをいろいろやってみる流れで、プリントにするかーということを思いついてからは割とスムーズでした。
プリントにすることと
作品の強度の問題
脳内補完しやすいということで、「日常品の箱を展開して、プリントする」という方向に決めた、まではよかったんだけれど
このプリントという作業にも、いろいろ技法が存在します。ややこしいことをなしにしたとしても、大きな部分だと、プレス機でするのか、手で刷るのかということを考えなければならなかった。
銅版画に使う大きなローラーでプレスするのがこの場合は一番きれいに刷ることができる。だけれど、「綺麗に刷っちゃっていいのか」という問題がその前に立ちはだかりました。
ただ綺麗に刷って、エディションを10とかにしちゃった場合は、本当に本当に箱が開かれただけのプリントになってしまって、エディション10だと一枚いくらになるのか、サイズにもよるけれど1万円くらい?2万円?
とかって思い始めると日本の版画の考え方はあまり詳しくないけれど、コンテンポラリーの中では「萩野真輝の次の新作」が2万円。というのはちょっといろいろまずい。
なのでエディションは少ないようなプリントでなければならいなと思うことと、ただただ綺麗なプリントが欲しいわけでないので、ハンドプリントにしました。手刷りということ。
ただただ箱を開いたものを刷っただけ。
これはそうなんだけれど、その中に作品としてそれなりの値段的な価値がちゃんとつけられるくらいの強度(作品単体としての良さ)みたいなものを確保しておかないといけない。ということを狭い範囲の中でクリアする必要がありました。
ただただ綺麗に丁寧に印刷をしてしまうとそれが薄れるように感じていたので、できるだけハンドプリントとしてのクオリティを見せたくて、ムラが出るように刷ったり、エディション3としたんだけど、それぞれ味があるというかムラによる差が生まれるようにして、半分ユニークのような状態を作りました。(紙の汚れとかあんまり気にしないのは日本的にはアウトな気がするんだけど)個人的にはこれが強度につながっているように思っています。
いろんな箱で作品を試してみたんだけれど、結局こういう形で何枚か作品を展開できました。A2サイズという大きめのサイズで余白を多めに残すということも強度というか「これが何を表現しているのか」という疑問を持ってもらいやすい道を作っておくということに繋がっています。
このPathを作ることが、コンテンポラリーというかコンセプチュアルアートでは非常に重要な部分だと考えていて、このPathが途切れていたり変な方向に行っていたり、分かりにくすぎたりしないことが重要だと思います。
分かりやすすぎても退屈な作品になってしまうので、このPathの置き方が作品のクオリティに直結するような気がします。
ぜひ実物をご覧になっていただきたいです。よろしくお願いいたします。
Masaki
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