何がアートで、何がそうじゃないかの話 part 2

何がアートで、何がそうじゃないかの話 part 2

前回part1の記事では美術的価値を持たないものは、美術/アートとは呼ばずに、芸術として扱うべきだという話をしました。
言葉の前提などはpart1の方でまとめていますので、そちらを先にご一読いただけると助かります。

前回の最後の部分では、過去の美術作品を把握した上で、内容の部分で新しい要素を含んでいないといけないという話で終わりました。ちょっと具体的な例を入れつつ、今回はもう少し何がアートで何がそうじゃないかという話を突き詰めていこうと思います。

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2020年8月 追記

私が意図している「美術/アート」→「現代美術/現代アート」として置き換えて読んで頂いた方がわかりやすいと思います。
わかりにくくなってしまってすみません。

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目次

なぜ新しくないといけないのか
それを個性という言葉でまとめていいのか

新しい要素を含んでいないといけない。と言いましたが、なぜそうなのかかということをまずもう少し掘り下げていきます。新しい要素を含んだものはもちろん美術的価値は高くなるということは前回の記事で理解してもらえたかなと思いますが、なぜそうじゃないといけないのかということです。そうじゃないといけないというと、許されないという風な印象ですが、この意味は「そうじゃないと、美術/アートとは呼ばれなくなってしまう」ということですね。芸術作品としてでよければなんの問題もないと思います。ここらへんのなんかもやっとする部分を今回は掘り下げていきます。

なぜ新しくないといけないのか、その答えは実にシンプルで、言葉を選ばずに言えば、新しくないものはパクリだからです。美術は学問で、研究なので、わかりやすく言えば科学の研究と同じです。新しい発明だーーー!!!って過去のことを知らずに今、この時代に電球の発明をしてもなんの価値もないでしょう?ということです。美術史に疎く、そしてこの部分を理解せずに制作をしている状態だと、研究ができていない=学問的ではない → 美術/アートとは呼ばないよねということです。科学者はたくさんの書籍を読み、新しい研究発表の情報を常に取り入れ、先行研究、論文をたくさん読んでいるイメージはみなさんあると思います。美術が学問とした場合、もちろん我々も同じことをしなければならないということです。もちろん作家の我々と美術研究家に常に同等の研究量を求められているわけではないとは思いますが、少なからずとも何が新しいのかを考える必要があるということです。

日本人作家の多くは、この内容的な新しさ(または研究としての深さ)よりも、表面的な技術を追う傾向にあると言えます。もちろん有名な作家ほどその傾向から外れていくわけですが… どういう流れでそんな作品が多くなるのかをこのブログでちょこちょこと書いているので、散漫してしまっていると思うので、まとめます。このトピックでまとめている内容以前に、美術でも芸術作家でも、作品を作るときに個性的な、オリジナルな作品を作ることを目標にしているのは共通でしょう。それはつまり上で言った新しいものやパクリにならないようにするためでもあると思います。これを見ていると、符合しているように見えますが、実は大きくずれています。

繰り返し説明をしますが、このパクリにならないという部分は芸術分野全般、当然のことです。ですのでなにかを作るときに新しいものを作らないといけないというのは、クリエイティブなもの、つまり芸術作品としてはどのジャンルでもある程度、ベースラインとして求められていることです。例えばファッションとか、雑貨やアクセサリーというのは流行り廃りも多いですし、競争相手も多いわけですので、個性的な作品が求められるでしょう。
強調して言いますが、それに対して、美術作品に求められているものは、パクリにならないような、ただなにかが新しいという部分では足りず、それが美術的価値を含んでいるかということです。

まだまだ不鮮明だと思うので今回も例を挙げて話を進めます。

個性的で新しいけれど
美術的価値が少ない作品とは

海外で美術を学んだ私が思う、日本のアートシーンについて」という記事でも話していますが、わかりやすく日本の作家に多い作品を例に出して見てみます。

美大でもどこでも、やはり個性を大事に!オリジナリティを!と、その部分を求められるその結果、作家は自分の内側に目を向けてしまいます。(別にこれが悪いというわけではまったくありません)アートは自己投影とか自己表現とか、そういう言葉を聞いたことは誰しもあるはず。なぜこうなるかと言うと自分は唯一無二で、自分の中に個性が存在するからと思ってしまうからです。そして自分の感情などに目を向けてしまいがちで、結果的に作品と自分の感情をリンクさせすぎて、精神を病んでしまう美大生も多いわけです。
こういう思考回路だとどういった作品になるかと言うと、自分自身のセルフポートレート型の作品、自分の感情を表現した抽象画、自分を何かに置き換えたり、自分の内側に広がる世界を描いたりということになります。心象写真とかも同じようなことで、風景写真と自分の感情をリンクさせるような形態をよく目にしますね。
そうすることで相手の共感を得ようとするスタイルや、もしくは相手の捉え方に委ねるといった作品形式になっている部分が、とても日本的な作品だなと思います。(上のリンク先の別記事で詳しく話しています。)
大まかな部分をすくい上げると、「自分は個性的な人間だ」という、自己アピールをしている作品が目立つということですね。新しいものを求める→作品の内容の唯一無二(研究美術的価値)を求める”のではなく”、自分の中の個性を用いて唯一無二を求める→自己表現を行う→ドキュメンタリー的な感覚を求める。ということになります。

内容は今挙げた部分で、では外見の表現の部分はどうなるかというと、オリジナリティをその上に追加するしようするため、技法や表面的なクオリティに視線が行きます。わかりやすく言うと、内容の美術的価値を外見の技法的な部分で底上げしようということです。新しい技法や、とても緻密な作品だったり、巨大な作品だったり。ぱっと見て、ハッと驚くような作品だったりすることが多いでしょう。

ですが、
そういった自分の表現という作品は、3歳児頃からみんながやっていることです。
そういった外見だけを相手に見せる作品というのは、伝統工芸に近づいていると思います。

これまで話してきた、学問的、美術的価値、新しさからどんどん離れていっていると思いませんか?
上で挙げた自己表現とかが、間違ってると言いたいわけではないんです。ポートレートがダメだとかが言いたいわけでもありません。ただ、前回の記事でも説明したように、それ、数百年数千年の美術の歴史で、散々やられてきたんじゃない?ということです。ロマン派とかはほら、感情に目を向けたりしたし。デッサン力とか新古典主義だしさ。そこんとこどうよ?ということです。
もっと言うと、自分の中の個性は、本当に唯一無二なのか?という疑問です。世界人口77億人。先進国で世界中の情報が飛び交っていて、ある程度モラルや常識なんてものがインターナショナルに流通している今、社会性が極めて重要視される日本の教育の中で、自分の感情や自分の中の風景は1/77億で唯一無二なのか?それは美術の長い歴史の中でオリジナリティなのか?という疑問です。

美術的と芸術的の
大きな違い

繰り返し言いますが、どちらが優れているとかの話ではありません。ただ別物だよってことを理解して欲しいなと思います。
例えば美大芸大の中で日本画科っていうのがあったりします。古典的な日本画の技法を学んだりしています。陶芸学科だったりも同じですね。(これをイノベーションして現代美術作品として活動している人もいるでしょうか、これは例外として扱って、)つまりはこういう日本の作品は、美術ではなく芸術として存在していると思います。言いたいことは伝わっていると思いますが、これはつまり伝統工芸的な部分を学んでいると言えるからです。これを現代作家として新しいものに昇華させようとしている作家も多く知っていますが、技法的な部分に逆にフォーカスしてしまうので、内容の部分を忘れている人が多いような印象です。
ですがこれらの作品が、芸術的価値が高いことは疑いようがありません。そして世界でそれらが求められていることも忘れてはいけません。ジャパニーズクオリティとして、ジャパニーズアートとして世界で需要があって、評価すべき作品です。

今これはずっと美術的な観点から私が話しているので、芸術側が否定的に見えると思いますが、別にそうじゃないんです。
意味わかんないくだらない美術作品なんてたっっっくさんあるでしょ。は?なにこれ?絵の具垂らしただけじゃん。みたいな、誰でもできる作品とかありますよね。なんにも綺麗じゃないしすごくない。芸術的価値はない。っていう作品は美術の中に山ほどあります。

そう、わかりやすく言うと、(ちょっといいすぎですが)

現代美術/現代アートには別に、上手く描けるとか、綺麗とか
そんなこともう求められていないんです。

アートには綺麗さは必要ないということが言いたいわけではなくて、それよりも求められている部分が別にあるよということですね。

芸術的じゃないけど
美術的な作品

は?なんでこれが評価されてて、何十億円とかするの?ぱっと見、意味わかんないけどこれがアートなの?っていう作品はたくさんあると思います。いろいろ評価基準はありますが、なんとなくアートの価値を説明すると、すごいわかりやすく言うと「その時点で、誰もやったことがなかったから」ということが、美術的価値の一つだとして見てみてください。
ここではいくつか有名な芸術的じゃないけど美術的価値が高い作品を紹介してみます。ここら辺の話は以前にも「制作時間とその作品の価値について。そして「悩む」と「迷う」の違い。」という記事の中でもやってます。

Fontaine(1917)
Marcel Duchamp(1887 – 1968)

有名なデュシャンの『泉』という作品です。ただの男性用便器にサインをして、有名な展示会場に「アート作品として」展示しようとしました。もちろん大批判をされて展示は取り消し。(あれ、最近どっかで聞いた話だな)
この作品形態は「レディメイド」とのちに名前が付きますが、要するに造形物なのに自分で作った彫刻とかじゃなかったこと自体もこの時代では新しいことでした。「アート」ってじゃあなんなんだ?っていう問いかけをした現代アートのターニングポイントを作ったような作品です。

Alpha-Pi (1960)
Morris Louise(1912–1962)
(画像がパプリックドメインになってるかどうかわかんなかったので、googleの検索結果のスクショです。)

カラーフィールドペインティングと呼ばれる作品たちで、Mark Rothko, Jackson Pollockなどの作品たちと並んで有名な作品です。簡単にいうとでかいキャンバスに絵の具垂らしたりしただけ。色彩でその場所を包み込むことで、空間的な表現を行いました。つい100年前まで、ミレーが写実的な風景絵画を描いていたんですから、これが新しい試みだったことは言うまでもありませんね。

Cy Twombly (1928-2011)のドローイングたち

もうここまできたら、本当に3歳児じゃんってなってしまうと思うんですが、詩的アプローチからいろいろな計算や要素を含んでいるドローイングです。世界中で有名な作家ですし、2001年にはヴェネチアビエンナーレで金獅子賞も受賞しているような作家です。作品の一つには87億円もの値段がついたことも!

と、まあ紹介し始めたらキリがないのですが、ここでいう芸術的価値がないけど、美術的価値がある作品という意味は伝わったかなと思います。
おんなじようにみえるけれど、美術と芸術、アーティスティックとクリエティブとはこんなにも意味合いが違うということをこの2記事に分かって伝えたかったんです。なんで自分の作品がアートとして評価されないんだろう?なんで大学で教授たちにわかってもらえないんだろう?という質問をいただくのですが、本人がどちらに進みたいのか、どっちに分類されるであろう作品を作りたいのかを理解していないことが多いなと感じることが多かったんです。
球技やりたいんだよねってやり始めたけれど、野球とサッカーの区別ついてない。そんな状態です。あなたがやりたいのは野球ですか?サッカーですか?

ここからは個人的な思いの話ですが、
私が進んでいる道は現代アートの世界です。作品を見て「綺麗」って言われると「いや違うんだよなあ…」と思います。自分の作品が悪いなと思うし、相手がわかってないなとも思います。綺麗な作品はこれまでたくさんあったし、「綺麗」は共通感覚でもあるので、言い換えれば、誰だったある程度勉強したり技術を磨けば、綺麗な作品っていうのは作れます。
「綺麗」という部分は、ここでいうところの芸術的価値の部分です。新しい綺麗さを求めるのは美術的価値が0とは言いませんが、少ないのかなと思っています。

いろんな人にこの記事を読んでもらって、日本人が思っている美術と芸術の違いの境界線を少し、はっきりすることができたらいいなと思います!

何がアートで、何がそうじゃないかの話 part1はこちら

Masaki Hagino
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