日本人作家に足りない講評力の話

日本人作家に足りない講評力の話

今回は日本、アメリカ、ドイツ美大留学を経て、現在オランダで活動していて思う
日本の美大生、そして作家に足りない「美術作品講評力」について話してみようと思います。

先に少し前提のお話をして、講評とはなんぞやっていう話をした後に、自分のお手軽講評トレーニングをお教えします!

美術作品講評と
日本文化

作品講評力とは、そのままの意味で、ここでは美術作品を言語化して講評できる力のことを指そうと思います。この「講評する」という行為そのものが日本の文化的に、日本人はとても苦手なのかなと思っています。作品の講評で培われる能力を先に説明したいと思います。
・自分の思考の言語化力。
・相手の講評を聞くことで、新しい観点を発見すること。
・新しい知識の発見
・美術的思考力の向上
などが挙げられます。詳しく説明する前に少し別の話。

そもそも現代の日本文化というか、日本人的な感覚でいうと、自分が認めていない(つまり立場的に上にいる人以外に)意見を言われると不快に感じる人も多いのではないでしょうか。美大でも講評とは基本的に教授が学生の提出作品に対して一方的に行うことが非常に多く、学生同士で意見交換が頻繁に行われるようなものでもありません。欧米だと自分は自分、相手は相手と捉えている人が多くて、良くも悪くも相手の意見対して不快に感じるということもなく、結果的に意見を意見として攻撃だと感じない人が多いと思います。逆に日本文化で育った日本人的には、「相手に自分の意見を伝える」ということを、攻撃的に感じ取ってしまう人が多いのかなという印象。これはなんでかというと、日本は社会に溶け込めるように、「周りの人と同じ事ができること」という教育が根付いているからですね。「こうしたほうがいい」「こうでなきゃいけない」ということをお節介で相手に伝えているケースが多くなってしまうため、意見が「注意」に聞こえてしまうことが多いのかなと思います。

作品を展示して、知らない人が見にきて「ここはいいけど、ここがよくないね」と言われたとします。みなさんはその人のことをどう思うでしょうか。
「何様だよ」とか、「ほっとけよ」とか「あなたに何がわかるんですか?」とか。そう思うのは不思議なことではないように思います。「へーそう思う人もいるんだ」と思って、「なんでそう思うのか」ということをもっと詳しく聞けると、その人はこういう理由でそう映るんだ!ということを「ある第三者の意見」としてニュートラルに受け取れるのかなと思います。
相手の意見は、ひとつの意見として深く捉えすぎないことが大事かなと思います。

欧米の文化に思う事
欧米の美大の形態

10年以上欧米の文化で生活して、展示をしていると、日本と違う部分にたくさん気づきます。その中でも上記の部分は大きなことのひとつかなと思うんです。良くも悪くも人の目を気にしないし、人の意見もあまり深く気にしない人が多い。これは相手と自分に対しての「自由」を尊重しているようにも見えます。自分が「親切心で言ってあげたのに!」というようなことでも、相手は受け入れないことも多くあります。自分が相手に言う内容も自由だし、それを相手がどう捉えるかも自由です。必要以上にこちらの意見を押し通したり、通らなかったことに不快感を感じたりすることは、ある種「支配的な性格(dominant)」に映りますし、「自分の意見を通したい人(self-opionated)」に見えてしまいます。

この「自分の意見を伝えて、相手の意見を聞き入れる」という作業は、子供の頃から欧米の子供たちは教育として学んでいます。日本のように先生が板書していることをノートに写すような授業形態よりも、円になって子供たちが自分たちの意見を言い合うという授業がとても多いからです。第二言語の文法を学ぶという授業よりも、みんなの前で日記を読んだり、それぞれ役割になってアドリブでやりとりをしたり。

そんなこんなで欧米の美大では、日本美大とは比較にならないほど、生徒間の意見交換が多いと思います。共同アトリエにいる状態から意見交換はもちろんですが、月に数回行われる教授との個別講評の時や、課題提出の際やプレゼンの時など、教授と1対1の講評ではなく、学生が発言をして…一人につき1時間以上の講評になることは割と普通にあることです。
ドイツの美大では講評会みたいな授業(Colloquium)があって、他学科の学生が集まって週替わりで一人か二人ずつ作品をプレゼンして、教授を含め生徒たちで講評をするだけの授業もあります。

講評がなぜ大切なのか
講評力とはなにを指すのか

さて文化的な話から美術の話に戻ってくると、講評ということがなぜ大切なのかということになります。端的に言うとその答えは「自分の考えを言語化する」という作業に行き着きます。この言語化が本当に本当に大切だと思います。自分の作品をプレゼンすること、そして相手の作品を講評すること。これらの作業は、自分の作品の内容を言語化するという作業です。この色がいいと思った、ここがかっこいいと思った。なんていう内容ではなく、なぜ良いと思ったのかという思考の言語化が、講評には必要ですし、その結果自分の作品を作る際にもその力が生きてきます。

日本の美大生は本当にプレゼンが苦手。このブログで伝えている「学術的なコンセプト」が足りないということが大きな要因だとは思いますが、自分の感情や美術センス、共感性をテーマにしている作品が多いため、いざプレゼンとして論理的に相手に何かを伝えるとなった時に、難しくなってしまいます。そうなるとプレゼンが「技法の説明」だけになってしまって、自分が何をやりたかったか(過去形)の説明になったりします。

なのでこの内容の有無に加えて、抽象的な内容をはっきりと言語化するという作業は日本作家的に言うと苦手なのかなとも思います。一昔前だと、「作品が語るもので、作家が語るものではない」と言っている人も多かったと思います。なので「無題」みたいな作品が多かった時代があったり。 個人的に思うことは、作品が語るのは当然のことで、それが作家が語らないでいい理由にはなり得ないと思います。別に両方語ればいいし、作家が詳しく説明することで、相手が作品をもっと感じ取ることができることもあるだろうと思います。昔の日本人作家がいうそれは、作品が学術的ではないが故(時代的にもそれが主流だったとして)、作品に相手への共感性や、感受性を求めていて、相手に作家の意図を汲み取らせるということ自体、つまり”ぽい言い方”をすると「作品との対話」が必要だと考えているため、作家は黙っとけよっていうことかなと思います。
ただ美術の流れっていうのはすごい勢いで流れていて、美術が作品の模倣を禁止としている性質を持っている以上、その考えをつねにフォローしていく必要があるわけではありません。

現代アートはどんどんと難解になっていくし、コンセプチュアルになってきています。シンプルを追求した作品も難解な上でのシンプルとして成り立っていて、なぜこれが新しいのかということを、見ている人側だけでは判断しにくい作品も多くなってきています。別に全部作家が語る必要があると言っているわけではなく、作家がもっと表に出て、作品の内容や自分の表現したいことについて言語化していくことが、悪いことではないと思います。

そんな理由で、欧米の美大は講評が大切だと認識して、授業形態にも多く取り組まれています。
相手の作品を講評するためには、講評力が必要になります。これは上で挙げた言語化についてとはまた別の能力です。単純な「この作品が良いか悪いか」を判断する力です。それは個人的な趣向の話だけではなく、なぜ良いと思うのかの理由を自分で説明できる力ですね。多くの場合は比較対象の知識、この場合は美術史などの美術的知識がないと、相手の作品を講評できません。そう言った意味でも美術史があまり重要視されていない日本美術文化だと講評が苦手なのも納得できますね。

特に常に新しさを求められている現代アートの中では、講評の中に「何が新しいのか」ということを絡めることが多くなるでしょう。このことはつまり過去の美術史を全て頭に入れておかないと判断できない内容なわけです。この新しさというのは別に全く新しいということでなくてもいいんです。研究対象としてこの作家をオマージュしているけれど、この一部分がこの作家と大きく違う点だ、という「重箱の隅をつつく」ほどの小さなことでも美術では構いません。ただどんなに小さいことだったとしても、研究において新しいものは新しいのです。

そういうわけで講評力に必要なことは、
知識や経験という自分自身の「美術力」みたいな力と、
その知識から来る思考を「言語化」できる力が必要。

講評力のトレーニング

私は二十歳の頃、短期アメリカ留学の際に大きな挫折を経験して、そこから美術史の大切さを学んで、美術を学問として捉えて勉強することを始めることができました。その一環として始めたことは、講評トレーニングです。
銘打ったものの簡単なことで、自分が見にいった展示の資料をまとめたり、ノートに作品の講評を勝手に行うというだけの作業です。

最初は美術関係の本をたくさん読むことから始めました。美術の本には大きく分けて2つあって、学問的に解説を行なっている本か、作品を講評している本です。わかりやすく言えば美術手帖とか、雑誌とかは後者になるのですが、後者を読むことで他のプロの人が行なった講評を知ることができます。その人の講評が優れているかどうかは置いておいて、学ぶことはきっと多いと思います。

そして自分で美術館に行ったり、ギャラリーの展示に行ったりしたら、写真を撮って(海外だと撮影OKなんですが、日本だったら資料をもらうとか)後日自分でその作品がなぜ優れているのか、またはなぜ自分が優れていないと思ったのかをちゃんと言語化して、残しておきます。しっかりと言語化していくことでトレーニングになるし、この言語化の作業は自分の制作に必ず返ってきます。

作家にとってなぜ講評できるといいのかというと、
相手の作品を講評できるようになると、自分の作品も客観視して見ることができるようになるからです。
自分の作品は本当に正しいのか、良い作品なのか、そういったことを制作の段階から質の高い自問自答ができるようになります。言わずもがな、その思考プロセスは良い作品を生むはずです。

私は毎日作業終わりに、今日の進捗を写真で撮って、制作日誌をつけて1日を終わりにします。そうすることで、自分の作品が向かっている方向が正しいのかを毎日軌道修正することができます。明日やらなければならないことをまとめて、次の日の朝作業を始める前にそれを読んでからスタートします。1日のゴールも見えているので毎日の制作のモチベーションにもなりますし、常に言語化していくことで、常に自分の作品やコンセプトを深化させていくことができるのでおすすめです。
(私はiPadのgoodnoteというアプリで写真を貼り付けて、その横にapplepencilで手書きで日誌を書いています。手軽に写真付きの日誌が書けるのでオススメです。)

ちょっと久しぶりの日本語で、支離滅裂になってしまった気がしますが…
更新が少し空いてしまってすみませんでした。これからまた少しずつ更新を再開します。

Masaki Hagino
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