NFTアートはARTになり得るのか?という議論

NFTアートはARTになり得るのか?という議論


NFT界隈の話題が立て続いてすみません。やはり今世界中の注目を集めている話題でもあり、
美術界隈の情報サイトでも、NFTの話が出てこない日はない、そんな時代。

今回はちょっと取り上げるのも難しいところではある、そしてよくある議論
NFTアートはアートなのか?
というところを、美術の文脈的に考えてみようと思います。

何がアートで、何がアートではないのか、みたいな話はここではもうしないので、先に過去の記事をいくつか読んで頂いて、「学術的価値が存在しない」ものはアートとは分類されないというをご理解頂いた上で読み進めていただけると助かります。NFTの話はこちらでまとめてあります。

追記:
今回の記事を元に話したPodcastで話しました!

NFTアートはアートなのか?の
答えを先に言うと

答えを先に言うと、「質問がそもそもおかしい」です。
NFTっていうのはブロックチェーン云々を使った、新しいテクノロジーとそれにまつわる概念と、方法です。なので、それを使ったら、つまりNFT化されたら何でもかんでもアートになるのか?ってことであれば「そんなわけない」が答えです。例えそれがとんでもない高額であっても。

先にわかりやすくアートの話から、一本の境界線を引いておくと

今ここで僕が何かしら油彩を使って油絵をキャンバスに描いたとしても
それはART/美術作品にはなり得ない。

油絵ってわかりやすくアートっぽいけれど、そこに学術的な価値を持たせるようなことができなければ、それは油絵であって、必ずしも美術として、ARTとしては成り立ちません。油絵が無条件に全部ARTなんじゃなくて、油絵を用いてART作品を作ることができる、みたいな感覚。ただどれもそれはクリエイションとしては素晴らしい。けど学問としても美術にカテゴライズはされないだろうということ。芸術=クリエイションと仮定するなら芸術と名乗ってもいいかもしれないけれど、美術ではない。何度も言うけれど、それが素晴らしいか素晴らしくないかということを話しているわけではないです。カテゴライズの問題。そしてその価値の問題。
逆に言えば、何を使ってもどんな外観であったとしても、それが見た目に綺麗で、上手でなかったとしてもそれはARTになり得るわけですね。
このブログではたくさん話をしてきたので、納得してくれる人がほとんどであるとして進みます。

問題なのは中身(学術的価値)中身が具現化されているかという点であって、表面的な技法や方法論の点では決定されないということ。

つまり、

油彩だろうが、アクリルだろうが、写真だろうが、彫刻だろうが、アニメーションだろうが、イラストレーションだろうが、デジタルだろうが、アナログだろうが、NFTだろうが、高額だろうがなんだろうが、それは技法やメソッドの話であって、その部分ではそれが美術かどうかの決定的なポイントには絶対に絶対に絶対になり得ません

その後で、それが「良いアート作品なのかどうか」、もしくは「アートではないけれど、良いクリエイションなのか」というところの判断が繰り広げられるわけで、それはまた別の話です。今ここではカテゴライズとその価値の話。何を使うか、ということは技法や素材にしか止まらず、それを使えば無条件にARTとしての価値を持つということにはならないということに注目してほしい。

現代アートとして価値が高い
NFTアートとは

私が色々見てARTとしての価値が高いなと思う作品は以下の3つ。Cryptopunks、Beepleなどはひとまず置いておいて、
-Pakの『The Cube』『The Pixel』あたり (美術手帖の記事リンク
-Rafaël Rozendaal の以前からのWbSiteの作品群や今回のNFT群など(Digital artist Rafaël Rozendaal on NFTs and how the art world is like a video game – The ideaspace- 
-ダミアン・ハースト 『The Currency』 (ダミアン・ハーストが揺さぶる アートとお金の既成概念。NFTプロジェクト「The Currency」が問いかけるものとは?– NEW ART STYLE- )

これを見てパッとわかることといえば、どの現代アーティストも
NFTの性質を利用したコンセプチュアル・アート作品を作っているということ。ここら辺が重要。

これらはNFTという性質、平たくいえば、「現存するフィジカルな作品に価値があって当然だった今までに対して、手元にないデジタルデータというものに価値を見出す性質」に、 「ARTとしての価値は存在するのか、付与できるのか?」という問いかけをしているとも言えます。

これはとてもデュシャンの『泉』的であるなとも思います。自分が作っていない物体、レディメイドを
展示して、これをART作品としてどう評価するのかということを問いかけた、彼の作品の性質と似ています。

最近日本で販売されている、新しい美術手帖がNFT特集だったらしく、その中でRafaël Rozendaalは
NFTそのものが一つのコンセプチュアルアートみたいなもの」ということを言っていたようです。(情報だけいただいたので、実際の文章は未確認ですみません)
これにはすごく同意をしていて、上の三人(と、バンクシーの作品を燃やしたやつとか)の作品のコンセプトはこの、「NFTの性質とフィジカル作品のこれまでの性質の対比」をコンセプトにしていて、そういう見地からするとこのような作品があと10個くらいできてしまったら、一旦終わりかなとも思います。

つまりこれはデュシャン後のレディメイドの作品全てみたいなことで。表面的な部分(男性用便器以外のものでやってみる)を変えたとしても、中身の部分は割と同じことをしている状況になってしまうと、美術としての価値は認められにくいように思います。(あ、ハーストのパクリね、ってなっちゃうって意味で)

もちろんNFTの性質を色々使った現代アートっていうのは、今後たくさん出てくるだろうし、私も今色々と考えてみているけれど、本質的な部分は「この三人がやったことっていうのとどれだけ違うか」というところが大事になってくるような気がします。

なので別にCryptopunksだったりBeepleだったりNFTの有名どころの作品があって、(上記の三人とどっちが早かったか?みたいなことはまぁ置いておいたとして)それ以外の現在のマーケットプレイスでやり取りされているほぼ全ての作品たちが、美術的な価値が高いかと言われれば、「この数名たちの先駆者の後追いになってるだけ、つまり表面的な部分を変えているだけであって、美術的な価値は低いとも言える」です。ただ何度も言うけれど、これがクリエイションとしての価値が低いと言うつもりは全くなくて、どの作品だってクリプトアートは新しい価値を保有しているし、そのNFTが高額であることも当然だと思うし、とても価値のあるものなのは言うまでもないです。ただここで話しているのは「美術としての学術的な価値」の話なので。

美術作品の「信用性」の話

一番美術作品として大事なことは、もしかすると「信用性」という部分かも知れません。要するに、何が美術作品たるか、ということは割とこの「信用性の担保」ということが大事かも知れない。

作家が「これ美術作品です!」って言えば美術なのか? ー いえ、違います。

もともと美術っていうのは、ゴシックから数えても数百年の歴史があって。教会、王族貴族、パトロン、美術館などなど、扱われる人々の質が変化していきました。つまりハイカルチャーで扱われるものだとも言えます。どういうことかというと、教養がある人々、つまり何が美術か、美術をどう評価するのかということが知識的にも、そういう目を持った人たちの間で扱われるものでした。
現在でも美術館だったら資格を持った学芸員さんが扱うとか。つまり美術の知識を持って扱える人たちが、これは「美術としての価値があります」ということを担保している状態で、(知識を有していない)一般人に公開している状態です。何が言いたいかというと、これは美術としての「信用性」が担保されている訳で、例えば美術館に行って全く知らない作家の作品とかっていうのを見てることは多くあると思いますが、そんな感じ。

ただこれが美術館の次がギャラリーっていうものになって、その後コマーシャルギャラリーとなどになって。美術のことを知らない人がオーナーになって、資産価値としての美術作品の扱い方をするようになったり、アーティスト個人がSNSで作品販売をするようになったり。そしてその最たる状況が今のNFTマーケットプレイスだったりするんだと思います。社会学的なことを言うとハイカルチャーで扱われていた美術が、メインカルチャー、そしてサブカルチャーで扱われるものに変化してきたと言えます。

良い悪いの話ではなく、これはそういうもので、つまりそこに信用性が担保されていない状況で、美術的なものが扱われるようになりました。アートという言葉が広義化してしまって、アートが何かを判断できない一般人がアートという言葉の意味を書き換えてしまいました。NFTの世界では作家も購入者も匿名な訳なので、信用性の担保がないことが問題視されてもいます。

では(美術を判断する知識がない)一般人が、「どこでこれはアートだと判断する」のか。その価値基準が上記のことも含めて、「お金の価値」と紐付けてしまうようなことが起きてしまいました。別にこれはNFT以前からあることで、アートフェアだったり、オークションだったり。この作品が「○○億円で売れた/価値がついた」ということを表に出すようになり、注目されるようになりました。なので、一般人の思考が「この作品はすごい価値がついたから、いい作品に違いない」という判断基準を備えてしまうようになりました。

その「作品の価値が○億円」は、先ほどから出てきている「クリエイションとしての価値」です。モノの価値。それはすごいことであるのは言うまでもない。
ですが、これが「美術の価値」では必ずしもありません。なぜか?「信用性が担保されてないから」です。

わかりやすく言えば、

とある(美術の勉強を一切してない)人が適当に絵を描いてSNSなりNFTなりで100億円の値をつけて売ります。そしてとある(美術の価値がわからない)富豪が100億円で買う

ということが出来上がったとします。これはクリエイションの価値の売買はあったとしても、美術の価値のやりとりはされていないことがわかります。ですが高額だったことが一つのトリガーとなって、おそらく世界中で結構なニュースになるでしょう。「とあるNFTが100億円で売買された」と。それは当然。
で、ここからが危険な話で、世界中の一般人は今現在「作品が高額=美術の価値が高い」と認識しているので(信用性の担保がないサブカルチャーでの美術の認識が普遍化したため)、上の事象を「100億円で売れたということは、あの作品は何だかわかんないけれど、すごいアートに違いない」と思うようになる。

ね。怖いでしょ。

お金の価値でしか美術の価値を測れない、もしくは測ることに慣れてきてしまうと、遠い未来美術が衰退する可能性も出てきます。別の言い方をすると、一般人の「アートリテラシー」が低下の一途をたどるかもしれません。(もちろん別の側面が急成長するだろうけど、それはまた別の話)そうすると、今の子供たちは、アートリテラシーが低い教育と社会で育って、未来でいいアーティストになれないかも知れない。そうすると美術文化が衰退するかも知れない。

私が今このアートリテラシーについて思うのはこういう理由。クリエイションの価値が上がったとしてもアートの価値が一緒に上がっていかない可能性もある。そうすると問題だなと思います。
そういうものを何とかするためには、アーティストとしてのロールモデルが必要なんじゃないかなと思う。子供達が今将来はyoutuberになりたい!と思うのは、ロールモデルが山ほど身近にいたからだと思うんです。そしてYoutubeの存在が社会現象になった。なのでアーティストも子供達のロールモデルになることが、社会を動かすことにもなる可能性がある。

みたいなことを考えるようになりました。…何の話?

有名な現代アーティストなどはギャラリーなど、その信用性を担保できるところ通してNFTを発行することが多いです。NFTマーケットプレイスの中にも審査があるような場所など、どんどんとそういう美術の信用性の扱いがあるようになってきているので、良い傾向だなと思います。

ということで今回はここまで。Masaki Hagino
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