あいちトリエンナーレと文化庁補助金不交付について

あいちトリエンナーレと文化庁補助金不交付について

twitterでも少し言及したんですが、まとめた方が早そうだったので、今回は今話題になっている
あいちトリエンナーレに対する、文化庁の助成金交付の取り下げについて話をしようと思います。
いろいろと賛否両論なので、煽りを受けるのも面倒だなと思って(正直者)少し落ち着いてから記事にしようと思ってました。
ここ最近、展示が再開されたりと事態が変動していると思いますので、最新の情報を元にしたわけではないことだけ、先にご理解いただけたらと思います。FBで先に解説した内容を修正しました。

まず助成金制度について

まずみなさんに知っておいてほしいのは、「通常」、補助金やら助成金を採択する段階で、団体、個人で申請と審査というものがあります。私も申請はいろんなところでしていますが、芸術の分野では、助成対象の企画などの計画書を細かく、何にいくら使うのかという見積もりを細かくリストアップしたものを提出します。その中には通常であれば、展示なら「こういう作品を展示します」という作品集やらを企画書として提出するでしょう。(例えば私が過去にも申請したことがあるのはこういった助成です。新進芸術家の海外研修
あいちトリエンナーレが4回目となったことで、どこまで審査が厳密に行われていたかは置いておいて、通常は申請で細かな作品の説明を行われるものです。
財団だろうが文化庁だろうが、通常審査は、公平を期すためにも、専門家が招かれたりするものだと思います。文化庁の芸術系の助成金制度はいろいろあります。音楽と美術などその対象は分かれていますので、専門家に審査を依頼する、もしくは文化庁の中に専門家がすでにいるかなど、その専門家がレベルの高い審査をすることでしょう。

そして採択が決まった場合、契約書があってその中には
「提出された企画書・計画書と、変更がある場合は直ちに報告すること。そして著しく変更がなされた場合は、交付中止、または返金」のような文言が記されてるはずです。

それは当然ことで、「こういうことをやりたいのでお金ください」に対してOKが出て、蓋を開けて見たら全く違うことやってたらいやいやちょっと待てよとなるのは、みなさんも理解できることだと思います。

不交付反対署名サイトにある、文化庁の言い分は
1)審査段階で具体的な計画がなかったこと
2)電凸や脅迫が続いた時点で報告がなかったこと
3)展覧会中止によって事業の継続が見込まれにくなったこと

要するに、申請時の企画書と内容違ってるし、契約違反だから。ということです。

文化祭で3-1が焼きそばやるっていうからお金出してあげたんだけど、なんか当日見てみたらかき氷やってるし、報告もせずに勝手に昼で終わってるし。焼きそば目当てに来た人どうすんだよ、文化祭成り立たなくなっちゃうじゃん、金返せよ。
っていうことです。

もし文化庁に「何の落ち度もなければ」ここまでは問題ないはずです。…がしかし。

 

署名キャンペーンサイトの言い分について

署名サイトの言い分の中に「…(表現の不自由展の)支出は約420万円にすぎず、約7800万円の補助金全額の不交付を根拠づけるには全く不十分です。…」とありますが
文化庁側の言い分としては、それは関係ないでしょう。
トリエンナーレ全体に対して7800万円出すっていう話なんだから、契約違反がどっかに一つでもあったら、違反は違反なんで。というスタンスですので、突く部分が違います。
「騒動については周知の事実であったと考えます。」という部分も、真偽はどうであれば、文化庁側は報告がなかったと言ってるので、契約書にあるであろう「変更がある場合はすぐに報告する」という規約に反しているということなのでしょう。(これは下に続きます)

表現の自由っていう権利と、検閲っていう公の機関としての権利については、「例の作品たちが芸術だったのかという点」に議論がばらついちゃうのでここでは触れない方がよかったと思います。検閲と審査、調査は別で、審査調査は文化庁は公の機関であるのですから、むしろ頑張って審査はすべきですね。
どれを検閲で、どれを審査と呼ぶのかは、利権に詳しくないのでわかりませんが、大きなイベントで展示し、文化庁の助成を受けるわけですから、トリエンナーレに展示されてる作品は、レベルの高いものである必要があります。ですので、文化庁は審査は頑張ってやるのが当然です。

 

この部分の問題点

本題ですが、「文化庁の言い分がもし100%正しかったら」、不交付は契約上何の問題もないと思います。

…が、そんなわけないでしょ。

表現の不自由展は、2015年にすでにギャラリーでもやられてるし、補助金出すに当たって企画書だーなんだってトリエンナーレ側が、申請の際に提出したはずです。(されてるべきです)されてなかったらそれこそ問題。あの展示は、世論のこういう反応をもらうことそのものがコンセプトとして成り立ってる展示だったのは誰が見てもわかること。大きくなりすぎたとはいえ、絶対話題になるのはわかってた。
わかってないなら、補助金の決定を出してはダメだったでしょ。
企画書読まずに、OKだしたか、トリエンナーレ側がそもそも企画書とか出さずに、4回目だからってことで接待でもしながら今年もよろしくねってなったかどっちかなと思います。

上記のどっちにしろ、双方どっちかの落ち度です。一回OK出したんだから、一蓮托生、撤回は無理があるということ。

そしてここはキャンペーンサイトのいうとおり
報告がなかったと言っても、こんだけ騒がれてたら、報告なかったから知らなかった、はありえないし、気になるなら調査に入るべきでしょう。事の大きさからいって報告の余裕がなかったのも酌量の余地がある。
言い分3)の中止になったからといってトリエンナーレ自体の存続が危うくなったとも思えない。

世界中のニュースにまでなってしまった今回の騒動で、文化庁が補助金出してる=国がサポートしている という構図はまずいとして逃げたのがバレバレかなと思います。

審査があったなら、こうなることが予測できないわけない。
審査がなかったら、そんな審査なしで7800万円も税金使うな。

という世論に対して、逃げ場がないので、「契約違反」をこじつけで持って来てこの問題から降りたような気がしますね。無理がありすぎると思います。

もしくは、文化庁には自分たちが悪者になってまで、なにかを守るために行った、裏に意味があるような行動だったのかもしれません。そうだったとしたら、ちゃんと説明をするべきかなと思います。

 

文化庁がすべきだったこと

例の作品たちが、芸術だったか芸術じゃなかったのか、という判断で、「表現の自由」の権利は変わると、勝手に思います。この部分はこの次の記事にしようと思います。
つまりちゃんと美術的価値がある作品には、「表現の自由」は認められると思っています。それはたとえどんな作品であっても。
ですが、それがいい作品だったのか、その表現方法が果たして正しかったのか、ということは別の議論です。

ただ、文化庁の助成金制度って、個人でもいろいろとあるんですが、それはそれは芸術家からすると登竜門というか、取れるものなら取りたいようなものです。そんな文化庁という立場から精査された作品たち(形式上は)なので、文化庁はこれを責任持って、
「芸術として認めた。だから表現の自由という権利が認められて、何の問題もない。」というスタンスで展示会を守るべきだったと思います。表現の不自由展のコンセプトは世の中にこういうことを考えるきっかけを与えるものであって、風刺的な作品は、美術史の中でもいろいろと世界中でありました。良い悪いをどちらを含め、芸術として評価されればいいだけのことです。その時にめちゃめちゃ批判を受けて国からも迫害されたようなナチス時代の退廃芸術だったり、DADAにせよ、美術の歴史にはそんなことたくさんありました。

なので今こうして世論がこの展示についてもめていることは芸術としてちょっと歪んではいるけれど正しい形だと思います。

例の作品たちは、判断が難しいですが、個人的には芸術としてありだと思います。ただ表現の方法が正しかったかと言われればどうかなと思いますし、好きか嫌いかと言われれば別にどっちもでないです。そんなような作品は別に他にも見たことあります。

 

SNSでの炎上の声について

不交付問題だけなく、この表現の不自由展にまつわる全体に関わるすべての問題について、
美術がなんなのか、芸術がなんなのか、表現が何なのかということを、これまで普段考えたこともないような人たちが、SNSで声を荒げているような印象です。
このブログで何度も伝えていますが、美術/アートというものは、知識と目が必要な学問のひとつです。今回の件は税金が関わっていることや、右翼・左翼的な問題が関わっている作品だったこともあって、様々な人がコメントしていますが、その前に美術そのものを勉強なさってください。言葉がとても高圧的ですが、

美術関係者たちが集まって行っている、制作、展示、審査、助成というすべての工程で、世界中の美術業界は回っています。美術がなんなのかということを、なにも知らない方々が舞台に上がって「あんなの美術/芸術/アートじゃない!!!」なんてお門違いもいいとこです。

リスペクトすべきところはちゃんとリスペクトをすべきだと思います。ただ国民として、税金や政治的内容に声を出すことはなにも問題はないと思います。ですが一方で、芸術が政治と意図しない部分で絡んでしまうのはどうかなとも思いますが…
今回ここまで大きな問題になったのは、元をたどれば、日本人の根本的な美術教育レベルの低さが問題です。それは文化庁の中の人々に対してもです。美術作品を前にして、普通ならこの作品のコンセプトについてや、作品自体の内容、表現方法、クオリティなど、作品に対しての議論が生まれるべきです。ですが今回の件はそれ以前部分で政治的な問題が前面に出てしまったため、美術的議論にまでに行かない、ずっと手前の部分で揉めています。

ですので、そう言った意味でいい展示だったかどうかは置いといて、「表現の不自由展」のコンセプトのひと部分において、こんなにも多くの人を芸術について考えさせることができました。 展示としては大大大成功だったんじゃないかと思います。もう、デュシャンの泉のようですね。第一回印象派展のような、ブルトンの宣言のような、そんな大きな意味を持つ展示だったんじゃないかなと思います。世界中のニュースにもなりました。英語でもドイツ語でも、いろんなところで私はこのニュース記事を目にしました。

そういうことを自信を持って、文化庁は守ってみたらよかったんだと思います。きっと数十年後、数百年後、少なくとも日本の美術史には載ってることでしょう。