というかそもそも「美ってなんだろうか」

というかそもそも「美ってなんだろうか」

みなさん、哲学の分野の中に、美術についての分野があるのは知っていますか?美術哲学と言われるものだったりもありますが、なにより分野として確立しているのが『美学』というものです。
日本の美大や美術史専攻の学科に実際にどのくらいこの『美学』が浸透しているのか、どのくらいの授業があるのかはわかりません。ドイツ美大に5年通っていた私は、恥ずかしながら美学という学問を、ドイツで初めて触れて、ドイツで初めて勉強を始めました。
もちろんみなさんに教えられるほどの正確な知識があるわけではありませんので、今回は紹介という形で少しだけ触れていこうと思います。あまり堅苦しくないように、あっさりと美学を紹介していきたいので、複雑な話にならないように気をつけます。(脱線して長くなるいつものパターンが見える。)

 

座学もとても多い
ドイツ美大の美術教育

「ドイツ留学のすすめ」の記事の中でもいくつかこの話をしていますが、ドイツの美大では実技系の授業以外にも、美術史、哲学、心理学、そして美学の授業が非常に多いです。私がいた大学では前期後期のカリキュラムで1年生から毎年約4年間2コマ必修でした。それほど美術を解釈するということにも重きを置いているからだと言えます。決して表面的なクオリティだけでなく、「美術そのもの」としての価値がどこに付随するのかという点を、理解する姿勢を学べたように思っています。日本の作家の作品に比べて一番大きく違う点がこの部分かなと思っています。どの学問分野でも、教授が数人いて、それぞれ授業で扱うものが違うため、(授業のある曜日も違うため)私は約5年間週3コマくらいの座学を取り続けていました。そして芸術学(Kunstwissenschaft)などにも繋がって、ここでよく話に出てくる「美術は学問で、研究していく必要がある」という考え方を学びました。このドイツ哲学との出会いが、私の美術観みたいなものを形成して、そして今の作品のコンセプトのベースになっているので、みなさんの美学を知るきっかけになればなと思います。

そもそも美学ってなに?
アーティストが美学を学ぶ必要性

美学の内容に入る前に、概要と、そしてなぜアーティストがこれを勉強した方がいいのかという部分に触れていこうと思います。現代に生きている私たちにおいて考えてみてもらいたいのですが、「美しいもの」って何でしょうか。美術っていってるくらいなのだから、美術芸術アートの類が、「美」を扱っていることはなんとなく皆さんは既にそう思っているでしょう。例えば、花だったり、女性の身体だったり、自然の風景やイルミネーションだったり。「綺麗!」という言葉は美に当てる言葉なのかも知れません。そしてその「美しい」ものっていうのは、人によって違います。いや、もしかしたら違わないかも知れません。

アートが「美」を扱っているものだと知っていながら、私たちは「じゃあ美って実際なんだろうか」ということを、あまりにも考えずに生活していると思いませんか?そしてアートを扱うはずの我々アーティストが、それじゃまずいと思いませんか?

「美」が何か実は何も知らない。人間が何を美しいと思う生物なのかも知らない。模倣がタブーとされている現代アート世代で、「過去の美の解釈」と「現代人の美の解釈」の違いも知らない。 今自分が作ろうとしている作品は「美しいのか」 それ以前に美術作品は「美しくなければならないのか」 いや、というかそもそも「美ってなんだろうか」
そしてその「美」には価値があるのか、では一体どこに付随するのか?

その答えは美学の中にあったり、なかったり。
「美を追求する為に、制作している」というセリフもアーティストからよく聞こえてきますが、「美」とは人間にとって何なのか、もしくは人間以外の世界にとって何なのか。

美学を少しだけ知ってみる
まずはバウムガルテン

美学という学問は英語では「aesthetics」(エスティックス)と呼ばれます。これはバウムガルテン( A.G.Baumgarten(1714-62)というドイツの哲学者が1750年に出版した『Aesthetica』という書物が起源とされています。ギリシャ語とラテン語の造語からできたこのaestheticaという言葉には、のちに「美学」という日本語の名前が訳づけられますが、もともとの言葉の起源を辿ると『感性学』という意味付けになるようです。(日本語での美学についてはこの記事を書きながら、日本語翻訳のaestheticaを読んでいます。私はドイツ語原文でしか読んだことがなかったので間違いがあったら教えてください)
重要なことはここで「感性(独:Sinnlichkeit)」が出てくることです。日本ではこのよく感性という言葉が使われて、美術が評価されることがあると思いますが、こういう部分から来ているのかも知れませんね。

これはつまり18世紀の哲学で、啓蒙思想(Aufklärung)と自然科学(Naturwissenschaft)の確立により「感覚」にフォーカスする考え方や「感覚」の価値について考えるようになったためです。(話が逸れますが、私の美術研究で修士論文を書いたのはこのあたりからのSinnlichkeitの考え方と、のちに出てくるカントの部分がメインです)
どういうことかと言うと、「人間の感性感覚から来る認識」ってどういうことかなー?ということを考えるようになったということです。この感性認識論が美学には重要になってきます。

 

カントの判断力批判と
主観的価値観

ここまで来ると完全に私の研究の話になって来てしまうので、脱線してどんどん掘り下げてしまいそうなので、触りだけ!
バウムガルテンの美学は、その後シラー、シェリング、ヘーゲルなど他の哲学者にも影響を与えて、批判されていきます。

そしてカントで有名な『判断力批判(独:Kritik der Urteilskraft)』の中に、美的判断力と主観的価値観ついての話があります。ここら辺がこの記事の冒頭に書いたあたりを詳しく説明しているものになります。詳しく説明するとどんどんと専門用語が出てきて、それに対する説明がどんどん修飾されていってしまうので、ここではふんわりと話を進めます。『純粋理性批判(独: Kritik der reinen Vernunft)』の話も混ぜてしまいます。

「美」という漢字は、貴重で美味しい美味しい「羊」を「火」で焼いているという象形文字から成り立っているという説があります。これにも表されているように、カントは美しさは、人間は「快さ(こころよさ)」の感情によって感じるもので、逆に不快なものを「醜い」と感じるとしています。これを趣味判断と呼びます。

例えば、美しい花代表として、バラを思い浮かべる人が多いでしょう。ではそのバラは「美しい」ですか?言い換えると、「あなたはバラを美しいと感じますか?」
これをさらに噛み砕くと、「私たち人間が、普通に存在しているバラ美しいと認識しているのか」、はたまた「私たち人間が、美しいものとして存在しているバラを、そう認識しているのか」という大きな違いがあります。つまりバラは「美しいという目的」を持って存在しているのか(これを合目的といいます)という問いです。例えば刀を美しいとして収集する人もいますが、刀が美しいのは、あの形態(例えばよく切れるようなための目的)があるからだ、ということです。スポーツカーがかっこいいのは、速く走る目的のため空気抵抗などを考えられた形だからということ。

そして、上でも述べた、バラはみんな美しいと思ってるよね?という感情ですが、主観でありながら、これはバラが好きかどうかという関心については関係ないとされ普遍性があると判断しています。これを「主観的普遍妥当性」と呼びます。(ここらへんが私の作品のメインのコンセプトです)
そしてこの普遍性を、私たちは当然のように感じているということです。主観的でありながらも、みんな同じことを思っているよね?という共通感覚は、どこか社会的でもあるわけです。

あれ?どこかおかしいなって思いましたか?
私たちが美しいなと思う感情は、「主観的」です。ですが度合いは置いといて、みんな美しいものは美しいと思うでしょ?例えばデザインとかファッションって正解が多かれ少なかれありますよね。これはいいけどあれはダサい。もっと言えばトレンドとか存在しちゃってる。主観で自由な感情な割には、みんながいいなと思うものはだいたい似通ってる。だからおしゃれな商品は多く売れるし、パッケージデザインを変えただけで中身が一緒でも売れ行きも変わっちゃう。主観なのに。
この「美の判断」を私たちは、無意識にそして自発的にかつ自由な意思で「普遍」に寄せていっちゃう傾向があるのではないでしょうか。これはとても社会的で、道徳的な事かも知れません。

(あーほんとに間違えたことを教えたくない!という気持ちでいっぱいなので、もし間違っていたらすぐ訂正しますので、コメント等で教えてください。)

アーティストが
美学を知ることについて

哲学なので、別に科学的証明があって、データがあって、これが正解ということが論点ではありません。特に時代によってそれぞれの考え方は批判されていくので、「こういう考え方もあるんだな」って思えばいいと思います。私は哲学を哲学として勉強したわけではなく、コンセプトを考える思考材料になるかもという感情で専攻を始めました。美大での美学の授業も、美術史と擦り合わせて必要な部分だけを切り取って進んでいきました。
ここではカントがこうなんだよ!ってことを教えたいわけではなく、こういうことを考えた人がいたんだよ、ではあなたはどう考えますか?ということを問いかけたかったのです。別に私は哲学を哲学として学んでいたわけではないので、時代背景や順序、誰がどう言ってたかなんてあまり興味がありません。ただ美学というものを知って、自分では考えにも及ばないような問いかけを、考えるきっかけをくれる材料がたくさんあることに驚きました。

「美の追求」がああだこうが言ってる世界のくせに、人間が「美」をどう感じているのか、なぜ感じるのかなんて考えたことなんてありませんでした。そして今ではアーティストとして、美を扱うものとして、考えたことないなんてあり得ないと思っています。上でも述べたように、美の感じ方は、快さの感じ方です。つまりこれになぞれば私たちは、おそらくいい美術作品に触れて「快さ」を感じています。 これは表面的な美だけの意味ではないということがここでわかります。 普遍性の対象の人数を決めることはできませんが、アーティスト側は、作品を通して見る人への共感を求めている、もしくはあえて求めないのかも知れません。社会性や道徳性を多かれ少なかれ含むものかも知れません。もしくは現代アートではあえて含まないものかも知れません。

ただ何となく作品を作っていくのではなく、「アートとは何なのか」という誰もがぶつかる問いを、自分だけの小さな見解で進めていくのではなく、学問の力を借りて進んでいくときっと違うものが生まれるのではないでしょうか。よく「自分との葛藤」を作品にする人も日本では多くいますが、日本の狭い社会性の中に溶け込んだ状態で葛藤した作品は、結局どれも似たようなものになる危険性をはらんでいるのではないでしょうか?

物事にはいろんな考え方があって、その「考え方」についてを考えた人もたくさんいます。
ただの感情と思っていても、それにはもしかしたら紐づけられる考え方があるかも知れません。
考え方を、脳科学で科学的に説明もできるかも知れませんし、哲学的に説明できるかも知れません。

今回はふわっとさらっとですが美学そのものの紹介を通して、
みなさんが自由で普遍で、主観かも知れない美について考えるきっかけになればいいなと思います。