つよがりから始まったひとつの人生

つよがりから始まったひとつの人生

 

「わかってるよ。」

僕が今こうして、ドイツ・オランダにまで来て、表現する果てのない道を歩いている理由は
たったひとつの、”知ったかぶり”から始まっている。

当時20歳だった僕は、大学でグラフィックデザインを学んでいたのだが
ふとした教授の一言が原因で、デザインに飽きたと言ってもいいような感覚を覚えた。
決して力作とは言えなかったものの、教授に作品を見せたところ、彼から返ってきた言葉は
「これじゃぁさ、売れないよね」
だった。この一言で、僕はデザインというものに、面白味を味わえなくなってしまった。心の中で何かが音を立てて崩れる、とはこういうことをいうのかもしれない。
良いか悪いかではなくて、売れるか売れないかでしか判断されない世界では、やっていきたくないなと、そう思った。

その数ヶ月後、僕はアメリカでカメラを抱えて立っていた。

 

 

 

デザインではなく、絵を描いてる、アメリカ帰りの不思議な教授が
うちの大学にはいた。彼の紹介で僕はアメリカの写真家を訪ねていた。

20歳の僕は、アメリカでなにをすればいいのかもわからないまま、
アートのことなんて何ひとつ知らないまま、そこに立っていた。
そんな僕に、写真家のLonnieは聞いた、
「what do you want to do here」と。
ぽかーんとしていた僕に彼は、写真集を作ってみることを提案してくれた。

ここからの3ヶ月、文字通り毎晩、僕は涙を流した。
英語も満足にできない僕は自分の不甲斐なさと戦い、毎日ベッドの上で目に見えない敵に泣かされていた。
何かを成し遂げなければならない、そう自分に課したプレッシャーに押し潰されていた。

Lonnieは僕によく質問した。
「なんで写真を撮るんだ」「何でこの写真がいいと思うんだ」
「じゃぁなんで表現したいんだ。」
絞り出した中身の詰まってない答えを彼に献上すると
彼はそれを突き返してさらに質問をした。そして僕は黙るしかなくなって、彼の前でもみっともなく涙を見せた。

僕は生まれた環境のせいか、一人で物事を「考えること」に長けていると、そう自負していた。
ただそんな謎めいた自信を持っていた僕は、彼の質問にこれ以上答えられず
結局彼の前で何度も悔し泣きをしたのを覚えている。

僕はそれから、「考えること」を学び
毎日街で写真を撮りながら、「考えること」をしていた。
なぜなんだろう、答えのない数式を突き出されたような気持ちで
僕は毎日考えながら泣いた。その答えはいつしか

「なぜ表現をするという道の上で生きていたいのか」

というところに、行き着いてしまっていたからだ。

結果、自分を見失い、たくさんの「なぜ」という言葉に負け、
心を弱らせていたところに、憧れだった先輩が別件でアメリカに来ていて、
同じくLonnieを訪ねてきた。

その日の夜、僕は彼女と2人で話をしていた。
事の発端は、彼女の持っていた筆箱だった。
凛としている、と形容できる猫のような鋭い目をした彼女に
僕はいろんな強がりと知ったかぶり、嘘を塗り固めて防御体制だった。
しかし彼女の目はそんな僕の強がりという防具をあっさりと破壊し
僕は、彼女の前で自分の惨めさを知り、また涙を流した。アメリカに来てから泣きっぱなしだ。

グズグズしている僕に彼女は
「今からでも何も遅くなんかない。
日本に帰る前にできることはあると思う。」
と、言ってくれた。
そして鋭い嫌悪が見え隠れしているような彼女に、僕が言い返せた言葉はたった

「わかってるよ」

という、精一杯のつよがりだった。

泣き顔をこれ以上見られまいと
ソファーで灰色のブランケットを頭までかぶり、小さくなりながら
彼女が寝た後も僕は声を殺して、またも涙を流した。かっこわるいったらない。

 

・・・

 

人生で初めてとも言えるような挫折を味わっていた、そんなアメリカでの生活の中で
Lonnieの計らいで、僕は世界中で有名なテキスタイルの美術館で仕事の手伝いを特別にさせてもらっていた。
そこでartistの手伝いや、美術館調査としてNYにつれて行ったりしてもらった。

そこで、artについて何も知らない僕は
一つの大きなことに気づいていた。

アメリカのartistの言っていることがわからない。

彼らは、大学などで美術史をとても勉強してきたようで
日本の大学にいた僕は、彼らがコーヒーブレイクの中、話にあげる過去のartistを知らなかった。

 

ちょうどその頃の僕はやっと撮り溜めた、自分で現像したフィルムをLonnieの書斎で夜な夜なスキャンしていた。
彼の書斎は図書館の写真コーナーよりも、写真集や関連書が並んでいた。
考えることをやっと始めた僕は、彼にとって生まれたてのひよこのような存在だったのかもしれない。

「この本、少し自分の部屋に持って行って読んでもいい?」

ロバートキャパの写真集を抱え、そう聞いた。
なにやらモノクロの古いアートフィルムを見ていた彼にそう聞くと
彼は目を輝かせて、頷きながら、こっちにきて
「Sure, Mr.Masaki」
と言いながら、僕の肩に手を置いて、ぽんぽんっとした。

翌朝彼は、そういう競技があるかのような、いつものスピードで書斎とキッチンをばたばたと往復しながら、
「写真集はどうだったか」と僕に尋ねた。
うん、よかった。と、当時の英語では、その時の感情を伝えきれずにいたが
彼は何かを察して、嬉しそうにニコニコしながら、家を出て
砂埃を巻き上げながら、車を飛ばして出かけていった。

その日の夜から僕の部屋の前には、
彼がチョイスした写真集が、毎晩数冊ずつ、書籍から運ばれ
どんどんと積まれて行った。
定期購読している写真集ジャーナルが届くと、
彼は封を開ける前にそれもまた、今にも崩れそうな本の山の一番上に積んだ。

その日から僕はその廊下に積まれた本を
メモを取りながらよみはじめた。
大学の図書館にも、街の図書館にも通った。

そして美術史を学ぶことを始めた。
美術を学ぶことを始めた。

考えることを始めた。

 

Lonnieは優しい人だったけれど、厳しい人でもあった。
教えてほしい質問には、何一つ答えてくれなかった。
ただ、離れた場所からたくさんの「why?」をぶつけてくるだけだった。
そしてそれが何よりの道標だった。彼の優しさが詰まっていたと思う。
作品の中では、何一つの妥協を許さない、全てのことを言語化できる必要がある。

いつだったか、何度目からの彼のwhy?に答えられなくなった時に
耐えかねて、彼に「それに答えなんているの?」と聞き返したことがった。

「その答えが必要かどうかは、自分で決めれば良い」

と、結局彼は僕に答えを教えてくれることは一度もなかった。

 

僕がアメリカを去る前の最後の夜。
彼は僕が作った写真集の最後に、一言書いてくれた。

「See True」

と。

・・・

あのアパートメントの角部屋の一室で、僕は何度涙を流したんだろうか。
朝6時頃になると、外にある大きなビルの窓という窓が光を反射させ
無音の部屋に光をこれでもかと言うほど押し込む
少し大きめなベッドが二つある、孤独な小さな世界が広がる部屋だった。

あの部屋で泣いていた頃から12年が経った。そして今オランダでひとり、作品を作って生活している。
あれからどれくらい成長したのかは計ることはできないけれど
少しでも何かが変わっているといいなと、心から思う。

 

 

*6年前に書いた日記の文章を見つけたので
少し加筆して掲載してみました。

この滞在時で作った作品集はこちら
https://www.masakihagino.com/intimacy

初めて海外生活で触れた、アメリカ人の「愛情表現」に感動した。
今となっては、出来が悪い作品だけれど、初めて作った芸術作品だった。

Lonnieは
「枚数を増やすために、クオリティが足りない写真もちらほらある。
けれど初めてで、そして知らない土地で、よくここまでできた。A+はあげられないけれど、
期待を込めてA-だ。君はきっと良いアーティストになれる」

と言ってくれた。12年経った今でも、一字一句覚えている。